戯評


ベーシックインカムの射程:フィンランドの社会実験を素材に (5)

5. 考察とむすび:ベーシックインカムの可能性とその条件

 以上の検討より、フィンランドの社会経済的な現状、およびフィンランドで行われている議論の中に、ベーシックインカム構想と社会実験を位置づけるならば、社会経済システムの刷新、とりわけ福祉国家の刷新にとってベーシックインカムが持つ可能性と、それが開花するための条件について、以下のような予備的考察を行うことが可能だろう。

 第1に、ベーシックインカムが長期的・趨勢的な社会変化への対応策になりうるかどうかは、目下のところ不確定であると言わざるを得ないだろう。第3節でみたように、フィンランドの議論で注目するべき点は、ベーシックインカムが、長期的変化に対応して社会経済システムを刷新する一契機としても位置付けられているということである。こうしたラディカルな議論が、Sitraという政府機関内で行われていることにも瞠目せざるを得ない。しかし、現在の議論の中では、短期的な問題解決策としてベーシックインカムに期待するという、短期的な視野の議論がはるかに支配的であることも事実である。特に本稿が示したように、ベーシックインカムが経済停滞と緊縮財政の中で検討され、社会実験が実施されていることに注意すべきである。こうした文脈の下では、経済パフォーマンスを向上させる即効策としてのみベーシックインカムに期待をかける傾向が強まることは想像に難くない。ベーシックインカムが果たして、社会経済システムを刷新する一つのツールとしてラディカルな位置づけを得られるかどうかは、あくまで人々の選択と政治的意思決定に依存した、オープンな問題であるというべきだろう。このことはフィンランドのみならず、他国にも同様に当てはまることだと考えられる。

 第2に、以上のフィンランドの事例は、福祉国家に対してベーシックインカム構想が持つ限界を示唆している。第2節で述べたように、フィンランドは北欧諸国の中でも、現金給付に重心が置かれた福祉国家であり、現物給付が弱いことに特徴がある。しかももともと弱い現物給付の削減が続く見込みであること、および、ベーシックインカムは現金給付の枠内での刷新であるということも、第2節で示した通りである。現金給付は元々手厚いので、ベーシックインカムが人々の福祉 (welfare) にとってもつ意味は限定的だと考えられる。求職行動の促進や福祉供給体制の効率化という短期的問題解決手段としての期待がいきおい強くなることは、容易に理解できることである。

 したがって、市民の福祉に対してベーシックインカムがどのような意義を持ちうるかを考えるためには、次のような意味で、現金給付とは区別された、現物給付の動向が枢要であると考えられる。現物給付の削減は、より多くのサービスが、現金で購買すべき「商品」として供給されるようになることを意味するが、仮に現物給付の弱体化が続くとすれば、たとえベーシックインカムという形で現金給付が維持・強化されたとしても、必要なサービスを購入できない層が必ず出現するので、総体としての市民の福祉は低下する可能性が高いと考えられる。例えば、社会保障を完全にベーシックインカムで置き換えたという極端な想定の下ではあるが、フィンランド、イタリア、フランス、英国の4カ国について、ベーシックインカムが貧困と所得分配に及ぼす影響をOECDが試算した結果、フィンランドではベーシックインカムが貧困と所得不平等を拡大するとされる (OECD, 2017) 。極端な想定下の試算であることを割り引いて考える必要があるが、現物給付の維持・強化・刷新を欠いてベーシックインカムを導入したとしても、早晩問題を抱えることを示唆する結果である。ベーシックインカムは北欧福祉国家の特徴である現物給付に取って代わる存在ではないとするBergmann (2004)やCrouch (2013)、Gamble (2016)の議論とも整合的である。したがって、先進諸国でのベーシックインカムの導入を構想する場合、現物給付の刷新をどのように行うかということが、必ず同時に問題になると考えられよう。特に現物給付の削減が続くフィンランドでは、早晩この問題に直面することになるであろう。

 最後に、ベーシックインカム導入のフロントランナーであるフィンランドの経験について、他国の市民が今後注目すべきだと思われる点を2点のみ挙げて、結びにかえたい。第1に、第3節でみたように、財源に関しては利害が一致しない中で、多くの国民が期待する月額1,000ユーロの給付を実現するためには、税制改革が必須になることは明白である。この過程でどのような説得と妥協が図られるのかということは、将来の導入を構想する他国にとっても遅かれ早かれ直面する問題であって、極めて注目すべき政治過程に他ならないと思われる。

 第2に、より本質的な問題だと考えられるが、現物給付の質・量と供給方法がどのように変容してゆくかという問題は、上述のように、ベーシックインカムの帰結を考えるうえで極めて枢要で、注視する必要があるだろう。例えば横山(2012)が示しているように、フィンランドでは厳しい財政状況のために、医療・福祉分野でのサービス水準の低下や、市民によるコスト負担の増加といった、懸念すべき状況が生み出されている。この状況に対しては、コスト削減とサービスの質の維持を両立させることを狙った実験的試行が、地方自治体レベルでさまざまに開始されていることもあり(徳丸, 2017)、現物給付の将来像はなお流動的であると言わざるを得ない。「実験国家」(岡澤, 2009)としての性格を強く持つ北欧諸国の一国であるフィンランドの今後の経験は、ベーシックインカムについて考えるうえで、この点においても注目に値するものと考えられる。

 

参考文献

岡澤憲芙, 2009, 『スウェーデンの政治:実験国家の合意形成型政治』東京大学出版会

柴山由理子, 2017, 『福祉国家フィンランドの政治学:国民年金機構(Kansaneläkelaitos: Kela)の設立および発展過程に焦点を当てて』早稲田大学大学院社会科学研究科博士学位論文

徳丸宜穂, 2017, EU・フィンランドにおけるイノベーション政策の新展開:「進化プロセス・ガバナンス」型政策の出現とその可能性,八木紀一郎・清水耕一・徳丸宜穂編『欧州統合と社会経済イノベーション』日本経済評論社

横山純一, 2012, 『地方自治体と高齢者福祉・教育福祉の政策課題:日本とフィンランド』同文舘出版

Bergmann, B.R., 2004, A Swedish-style welfare state or basic income: Which should have priority? Politics and Society 32(1), 107-118.

Bregman, R., 2016, Utopia for Realists: The Case for a Universal Basic Income, Open Borders, and a 15-Hour Workweek. Correspondent.(野中香方子訳『隷属なき道:AIとの競争に勝つベーシックインカムと一日三時間労働』文藝春秋, 2017年)

Crouch, C., 2013, Making Capitalism Fit for Society. Polity.

Gamble, A., 2016, Can the Welfare State Survive? Polity.

Kela, 2016, From idea to experiment: Report on universal basic income experiment in Finland. Working Papers 106, Kela.

Kela, 2017, Can universal basic income solve future income security challenges? Kela.

OECD, 2017, Basic income as a policy option: Can it add up? Policy Brief on the Future of Work (May 2017)

Simon, H.A., 2001, UBI and the flat tax, in Van Parijs, P. ed., What’s Wrong with a Free Lunch? Beacon Press.

Van Parijs, P. and Vanderborght, Y., 2017, Basic Income: A Radical Proposal for a Free Society and a Sane Economy. Harvard University Press.

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ベーシックインカムの射程:フィンランドの社会実験を素材に (4)

4. ベーシックインカム社会実験

 以上のような文脈の中で、ベーシックインカムの社会実験が2017年1月から2年間にわたって実施されている。この社会実験は、中道右派連立政権である現政権が2015年5月28日に発表した政権プログラムの中で、社会保障システムの刷新を目的としたベーシックインカム社会実験を政策の柱のひとつとして据えたことに端を発している。実施主体であるKelaは、実験に当たっての問題意識を以下のように整理している。すなわち、(1)労働の変化に応じて社会保障システムをどのように再設計することができるか、(2)より強力な就労インセンティブを与え、就労意欲を高めるように社会保障システムを刷新することができるか、(3)現行の諸手当の管理に必要となる、複雑な官僚制システムを単純化し、諸手当の仕組みを簡単化できるか、という3点である(Kela, 2017)。今回の社会実験は、主に(2)の可能性を検証することを目的としている。

 実験の概要は次のとおりである。25-58歳の失業者からランダムに選ばれた2,000名には、社会実験に参加する義務がある。彼らの内訳は、男性52%、女性48%であり、25-34歳30%、35-44歳30%、45-58歳40%である。従来受給していた基礎失業給付や労働市場補助金は停止されるかわりに、月額560ユーロのベーシックインカムを受給することになる。ベーシックインカムは非課税で、再就職しても継続して給付される。なお、失業給付と労働市場補助金以外の諸手当は変わらず給付される。この条件下で、従来通りに給付・補助金を受給し続けている対照群と比較し、ベーシックインカム受給が求職行動にどのような影響を及ぼすかを検討することが、実験の主目的である。

 実験計画のための研究は2015年10月より行われ、ベーシックインカムの複数のモデルが分析・検討された。2016年9月には実験計画が回覧され、現行の実験よりも対象人数・金額ともに大規模な計画が提示された。しかし、法律や予算、スケジュール上の制約のため、結果的に、より小規模な実験を実施することになった(以上、Kela 2016; Kela 2017)。

 以上からわかるように、今回の社会実験はかなり限定的な規模(人数・金額)で行われ、ベーシックインカムが就労インセンティブを高めるかどうかという、重要だがかなり限定的な問題を検証しようというものである。また、給付の水準や財源といった、前節で述べたように対立が大きい問題に踏み込んだ実験でもない。したがって、社会実験によって確実な検証を積み重ねたうえで制度設計を行うという、現政権のスタンスが今後も維持されるとするならば、さらなる社会実験によって検証を積み重ねるべき課題は山積しており、現実にベーシックインカムが制度化されるまでには時間がかかると予想される。その意味で今回の社会実験は、ベーシックインカムの導入という、多大な労力を要し、相当の紆余曲折が予想されるプロセスの、重大だが小さな第一歩をしるしたものとみるべきであろう。

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ベーシックインカムの射程:フィンランドの社会実験を素材に (3)

3. ベーシックインカムに関するフィンランド国内での議論と支持動向

 ベーシックインカム社会実験の開始と前後して、フィンランド国内でもベーシックインカム構想に関して盛んに議論されるようになっている。そこで本節では、フィンランドにおけるベーシックインカムの射程、換言すればその可能性と限界を了解するために、代表的な議論を整理したうえで、国民各層の支持動向を探ることにしたい。

 

(1) 即効的問題解決策としてのベーシックインカム 

 前節が示唆するように、ベーシックインカムは深刻な経済停滞の中で提案・議論されていることを考えれば、それが短期的・即効的な問題解決手段として強く期待されることは自然であろう。次の3つの議論に大別することが可能である。

 第1に、ベーシックインカムの効果として最も議論が集中しているのは、失業者に対して求職行動を促すという期待である。後述のように、これは現在行われている社会実験の最大の目的でもある。失業中に受給している手当は、職を見つけて就業すると打ち切られる上、手当の金額が給与所得を上回る可能性がある。そのため、手当の受給者には就労インセンティブが働かない可能性が高く、このことが高失業率を持続させる一因であると指摘されている。そこで、失業中か否かに関係なく給付されるベーシックインカムで失業諸手当を置き換えることによって、就労インセンティブが高まり、失業率を下げることが期待されている。

 第2に、諸手当が細かく分化し、なおかつその受給条件が設定されているため、給付のための手続きが煩雑であり、その管理のための人員も多く必要になっている。無条件で全市民に給付されるベーシックインカムを導入することによって、この非効率性を緩和できると期待されている。

 また第3に、グローバル化やロボット化の進展に起因する労働市場の変化への対応策としても、ベーシックインカムは期待されている。代表的論者は、ストックホルムを本拠とする北欧の金融グループであるNordeaの取締役会長であるBjörn Wahlroosである。彼によると、グローバル化によってフィンランドの賃金水準を下げる必要があり、それによって企業は雇用を増加させると考えられる。また、経営状態に即応して雇用・解雇を柔軟に行えるようにする必要があるという。これらを達成する手段として、ベーシックインカムは優れた手段であるというのが、彼の見解である(Finland needs basic income and low-paid work, Helsinki Times 2016/9/15)。また同様に、ロボット化によって「低賃金労働か失業か」という選択肢にフィンランド人は直面せざるを得ないというが、ベーシックインカムはこのいずれの問題に対しても解決策となりうると彼は論じる(Banker Wallroos: Basic income only viable solution in face of massive job losses, Yle 2016/10/22)。しかし、現実に人々が欲しているのは、仕事なき所得保障ではなく仕事そのものであるから、彼のような考え方でベーシックインカムを導入しても、結局は失敗するだろうという厳しい批判もある(Basic income and the new universalism, Sitra)。

 以上のように、市場メカニズムの作用を通じて、あるいは政府による裁量を排除することによって効率化をはかり、経済の活動水準を上げる手段になり得るというのが、ベーシックインカムについてフィンランドで行われている議論の大半を占めると言って差し支えない。その結果、ベーシックインカム構想は経営者層を含む広範な支持を集めやすい社会構想になっていると考えられよう。

 

(2) 長期的・趨勢的変化への対応策としてのベーシックインカム

 ベーシックインカムを即効的な問題解決手段としてのみとらえる以上のような議論を批判し、長期的・趨勢的な変化への対応策ないし契機として位置づけるべきであるという、よりラディカルな議論も行われるようになっている。フィンランドの場合に特筆すべきことは、そうしたラディカルな議論が、NPOはもちろんのこと、議会傘下の公的ファンディング機関であるSitra(フィンランドイノベーション基金)においても行われていることである。

 こうした長期的視野からの議論がなされている背景として、Sitraのあるレポートは、戦後に構築されてきた労使・政府の3者間による「社会契約」がもはや壊れてきているため、新しい社会契約が必要とされていると指摘している。すなわち、労使双方ともにもはや長期的雇用関係を期待しなくなっていて、なおかつ政府にとっても、長期的雇用関係を前提とした課税が困難になってきている。このことは、社会保障の刷新を含む新たな社会契約が必要であるということを意味する。さらに、工業社会からポスト工業社会への移行に伴い、労働内容・形態の変化に沿って社会自体も変わらなくてはならない。ベーシックインカムが議論されているのは、まさにこうした長期的・趨勢的変化という文脈においてであって、工業社会の延命装置としてのみベーシックインカム構想を捉えるのは過小評価である。新しい社会契約を生み出す巨大な潜勢力を持った構想としてベーシックインカムを捉えるべきだというのが、彼らの議論である。すなわち、ベーシックインカムを施行した結果の重要性もさることながら、それと同等以上に、ベーシックインカムを施行するまでの討議プロセスの中で、ポスト工業社会の普遍主義的ビジョンが構築・共有されることが重要である(Basic income and the new universalism, Sitra)。つまり、ベーシックインカムにはポスト工業社会の「産婆役」が期待されているわけである。

 ここでSitraが強調しているのは、ベーシックインカムが普遍主義(universalism)的な構想であることの意義である。「普遍主義的」とは、すべての市民に対して一律で給付されることを指す。条件を満たす者のみに限定された給付は、しばしば受給者に不名誉の烙印(スティグマ)を押すことになりがちであるが、普遍主義的な給付はそうしたスティグマを回避できるという利点がある(5 views on what basic income should be and why it matters, Demos Helsinki)。さらに各国の政治の現実を見るならば、福祉国家の追求をはじめとする普遍主義的政治は1980年代に終焉し、個人主義・個別主義の政治が台頭した。Sitraの論者は、そのひとつの帰結が、普遍的利益を追求せずに個別的利害に関心を集中する、近年噴出しているポピュリズムであると見ている。ベーシックインカム構想は、普遍主義的政治を再興する方策の一つだと考えられるという(Basic income and the new universalism, Sitra)。

 ではなぜ、ベーシックインカムという構想とその財源が正当化されるのであろうか。シンクタンクであるDemos HelsinkiやSitraの議論は、社会経済の長期的変化からそれを正当化しようと試みている。著名な経済学者であるハーバート・サイモンは、ベーシックインカムを支持する次のような議論をしていて、それを彼らは援用している。すなわち、現在の財・サービスの生産はますます、科学的知識や信頼関係、社会制度などの社会的関係資本に依存するようになっている。こうした社会的関係資本は共有されているものなので、生産者に帰属すべき収益はより少なくあるべきで、課税対象とされたその残余は、社会的関係資本の担い手である市民に対して再分配されるべきであるとサイモンは論じた(Simon, 2001)。このことから、ベーシックインカムは給与所得の補填という局限的な構想である以上に、普遍的な市民権として積極的な位置づけを獲得することになる(Basic income and the new universalism, Sitra)。それを敷衍すると、ベーシックインカムの財源は必ずしも所得税に限定する必要はなく、例えば、共有資産である自然を使用した費用として課税される炭素税もまた、ベーシックインカムとして市民一般に再配分する財源として適当だと議論されている(5 views on what basic income should be and why it matters, Demos Helsinki)。さらに、資本・資産課税についても同様に、財源とすることが正当化されている(Does basic income solve anything? Grasp the arguments for and against, Sitra)。

 以上のように、ベーシックインカム構想は、工業社会に作られた社会保障の弥縫策としての意味を超えて、脱工業化を前提とした、より長期の社会構想の一環として、積極的な意味を持たせるべきだというのが、Sitraなどが行っている議論の主旨である。つまり、構想の効果いかんというプラグマチックな議論に局限せず、長期的な社会変化に対応した広義の福祉(welfare)のあり方を問うという、一層ラディカルな議論も並行して展開されているという事実は、フィンランドにおけるベーシックインカム論議の深さと幅広さを示唆しているだろう。

 

(3) 国民各層による支持動向

 ベーシックインカム構想に対しては、以下に見るように、職業別、支持政党別に少なからぬ支持率の格差がありながらも、2015年に実施された国民年金機構Kelaの調査によると、69%の国民が支持している。社会階層別の支持率は、学生74%、年金生活者71%、ブルーカラー労働者69%、上級ホワイトカラー労働者66%、下級ホワイトカラー労働者63%、自営業60%となっている(Kela, 2016)。これらとは異なるカテゴリーで尋ねている、自治体開発連合(Kunnallisalan kehittämissäätiö)による2015年調査によれば、失業者71%、企業家63%、学生57%の支持率となっている(Perustulolla hyvä kaiku kansalaismielipiteessä Kunnallisalan kehittämissäätiö 2016)。おおむね高い支持率であることは言うまでもないが、企業家の支持率も高いことは目を引く事実である。前出の通り、ベーシックインカムが人件費削減と労働市場流動化を後押しすると期待してのことだと推察される。つまり、普遍主義的なベーシックインカム構想は、やはり普遍的な支持を得ている。

 次に、支持政党別 (1)に支持率を見てみると、左翼連合86%、スウェーデン人民党83%、緑の党75%、社会民主党69%、真のフィンランド人党*69%、中央党*62%、キリスト教民主同盟56%、国民連合党*54%であった(*印は、現在の連立内閣を構成する政党を示す)。なお、キリスト教民主同盟以外の政党では、2002年調査から支持率が上昇している(Kela, 2016)。社会民主党は、支持基盤である公務員と労働組合員が、自身の基盤を危うくするベーシックインカムに反対しているとされ、それが支持率にも表れている。例えば、主にブルーカラー系の労働者を代表する労働組合連合であるSAKは、短期雇用を増やし、集団的労使関係を弱体化させるという理由から、ベーシックインカムに反対している(Finland’s basic income experiment begins: One man looks forward to a new start, Yle 2017/1/9)。左翼連合支持者のベーシックインカム支持率が高いのは自明であろうが、緑の党も、党首だったOsmo Soininvaaraが当初からのベーシックインカム提唱者だったこともあって、高い割合の支持者がベーシックインカムを支持している(Is Finland ready for basic income? Helsinki Times 2014/7/17)。連立与党についてみると、ポピュリスト政党である真のフィンランド人党、および、農民党を起源とし、地方への再分配志向を持った中央党の支持者の数値が相対的に高いが、新自由主義的な政策志向を持つ国民連合党の支持者による数値は低い。これらもまたそれぞれ、容易に理解できる傾向であろう。事実、Kelaによる同じ調査では、ベーシックインカムが労働意欲を低下するとした回答者は50%を超えたが、これは特に、政権与党である国民連合党と真のフィンランド人党の支持者に多かった回答である(Kela, 2016)。

 

(4)給付金額と財源に関する議論

 以上のように、総論としてのベーシックインカム構想は広範な支持を集めていると言えるが、意見対立が最も顕著に表れると考えられる各論のひとつが、給付金額と財源に関する議論であることは論を俟たない。

 諸組織・個人が提案している月額はかなりばらついている。例えば、給付額を提案している政党で見ると、緑の党440ユーロ、左翼連合620ユーロとなっており、また財界人による見解の例として、前出のWahlroos氏は850-1,000ユーロを提案している(Is Finland ready for basic income? Helsinki Times 2014/7/17)。2015年に国民年金機構Kelaが実施した質問紙調査では、最低年金支給額の1.4倍にあたる1,000ユーロが適当だとする回答者が最も多かった。Kela自身も、失業諸手当を破棄し、なおかつ就労インセンティブを保持するためには、最低1,000ユーロの支給が必要だと考えている。

 しかし、有力な財源と考えられる所得税率を合わせて、望ましい月額について尋ねると、回答の様相は一変する。税率40%で月額500ユーロという案への支持率は35%、税率55%で月額800ユーロという案への支持率は29%へと、支持率は著しく下落する(Kela, 2016)。もちろん、本節(2)で述べたように、所得税のみを財源とする必要はなく、環境課税をはじめとする広範な課税ベースがベーシックインカムの財源として正当だという議論も根強いことに留意するべきであろう。

以上、(3)および(4)の検討を踏まえるならば、フィンランドの世論は、ベーシックインカムを導入するべきか否かという総論で割れているという段階にはもはやなく、実現方法という各論をめぐって世論が割れている段階にあると言えるだろう。

 

(1) フィンランド放送協会Yleの最新調査によると、2017年10月3日現在の政党支持率は、国民連合党21.7%、社会民主党17.3%、緑の党16.6%、中央党15.8%、真のフィンランド人党9.9%、左翼連合8.3%などとなっている(Ylen kannatusmittaus: Demarien tilanne alkaa helpottaa – hallituskumppanien kokoomuksen ja keskustan kannatusero kasvaa, Yle 2017/10/5)。

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ベーシックインカムの射程:フィンランドの社会実験を素材に (2)

2. フィンランドの社会経済的背景

 ベーシックインカムがフィンランドのいかなる社会経済的背景の中で議論され、社会実験が構想されているのかを確認しておこう。

 まず経済成長率を見ておくと、GDP成長率(2009-2016年平均)は、米国3.0%、スウェーデン3.0%、デンマーク2.9%、EU平均2.6%、日本2.2%に対し、フィンランド1.5%となっている(OECD National Accounts at at Glance 2017より筆者計算)。また人口増減の影響を除くため、人口一人当たりGDP成長率(2009-2016年平均)を見ると、デンマーク2.4%、日本2.3%、EU平均2.3%、米国2.2%、スウェーデン2.1%に対し、フィンランド1.1%となっている(OECD Employment Outlook 2017より筆者計算)。いずれの指標で見ても、直近のフィンランドが低成長にあえいでいることがわかる。経済危機後の2009年における人口一人当たりGDP成長率を比較すると、米国-3.6%、日本-5.5%、スウェーデン-6.0%に対してフィンランドは-8.7%であり、落ち込みが相対的に大きかったことがわかる。経済危機を契機に急進展した情報通信産業のリストラが、その後の低成長の一要因になっていることは言うまでもない。

 次いで25-54歳の失業率は(2016年)、フィンランド7.4%、スウェーデン5.5%、デンマーク5.5%、米国4.2%、日本3.1%となっており、フィンランドの高さが際立っている(OECD Employment Outlook 2017より筆者計算)。データは示さないが、北欧諸国に比べてフィンランドの失業率が高い状態は一貫して持続してきた。その意味では、フィンランドは高失業率が構造化した経済だということができる。

 以上より、現在のフィンランドが低成長率・高失業率にあえぐ国であることがわかる。すなわち、ベーシックインカムに関する議論がしばしば想定する、ロボット化などに起因する長期的な雇用喪失以前に、経済停滞に起因する高失業という状況下で、どちらかと言えば短期的な視野からベーシックインカムが議論されているというのがフィンランドの現状であることを予め強調しておきたい。

 低成長の中で財政規模が拡大していることもまた事実である。図1は、デンマーク、フィンランド、日本、スウェーデン、米国における政府支出の対GDPについて、2007年を100とした時の値の推移を示す。容易にわかるように、経済危機直後の2009年には、スウェーデン以外の各国は財政規模を急拡大させて経済対策を実施したことがわかる。しかし、米国、ついでデンマーク、日本も徐々にではあるが財政規模を縮小させているが、フィンランドは他国に比べて財政規模が高止まりしていることがわかる。その結果、2015年の政府累積債務はGDPの74.9%にのぼっている。これはフランス(120.3%)、英国(112.6%)、ドイツ(74.9%)など、欧州の大国に比べると低水準であるものの、スウェーデン(61.8%)、デンマーク(54.2%)を上回る水準である。また、2015年の財政赤字の対GDP比は2.3%であり、デンマーク(1.6%)、ドイツ(0.9%)、スウェーデン(0.5%)を上回っている(以上、OECD Government at a Glance 2017より筆者計算)。フィンランドはユーロ導入国であるから、規則上は、欧州連合の「安定・成長協定」にしたがって財政規律を順守する必要がある。したがって、累積債務と財政赤字の現状も考え合わせると、緊縮財政路線に転換せざるを得ない度合いが北欧諸国の中でも最も大きいと言える。

図1: 財政赤字の対GDP比(2007年=100)

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ベーシックインカムの射程:フィンランドの社会実験を素材に (1)

(以下は,『Trans/Actions』誌(名古屋工業大学産業文化研究会・2017/12)向けに書いたノートです.お気づきの点がありましたら,お知らせいただければ幸いです.)

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ベーシックインカムの検討が始まった (5)

この項の最後に,ベーシックインカムの実証実験を設計しているOlli Kangas(社会保険機構・教授)の見解を,Helsingin Sanomatの記事(2016/1/17付け)に依拠して見ておこう.彼によれば,あらゆる場面で就業インセンティブを削がないような社会保障の仕組みとしてベーシックインカムを制度設計することが,実証実験の目的であるという.つまり,現行の社会保障制度には,特に低賃金の仕事を忌避させるインセンティブが作用しているというが,このインセンティブを是正することがベーシックインカムの目的であるという.現在は,所得支持手当や住居手当,失業手当などのもろもろの手当が存在するが,これらは所得が少ないほど多くの額が支給される手当である.したがって,ある程度の給与水準を超える仕事でないと,就業することが損になるのだという.彼は,低賃金の仕事への就業を忌避させない社会保障の仕組みとして,ベーシックインカムを設計することを考えているという.

 

したがって,実証実験が狙っているような制度設計が可能となれば,ベーシックインカムについてしばしば言われる「労働インセンティブを削ぐ」という批判は当たらないことになる.むしろ,対人サービス方面で増えてゆくことが予想される低賃金労働部門への就業を促進させる仕組みとして,ベーシックインカムを位置づけている点が,大変興味深い.これは基本的には,前出のBjörn Wahlroos氏(巨大金融グループであるサンポグループの取締役会長)の見解と同じで,労働市場の構造変化に対応する方策としてベーシックインカムを考えると言うことである.

 

なお,記事の後半では,全国民に最低水準の生活手段を保障すべしと言う憲法の規定を,ベーシックインカム制度も満たさなければならず,したがって,ベーシックインカムの金額も現行の基礎的社会保障と同額以上でなくてはならないというKaarlo Tuori氏(社会保険機構・教授)の言葉を紹介している.現実の金額がいくらになるのかは政治に依存して決まるのだろうが,その金額を決める上で,福祉国家の理念は重要な意味を持つであろうことを示唆していて,これも大変興味深い.福祉国家の理念・理想と,労働市場・財政の現実とのせめぎ合いの中で,ベーシックインカム構想はこれから激しく揉まれることになるだろう.

ベーシックインカムの検討が始まった (4)

ごく最近の別の調査(地方自治体開発財団/Kunnallisalan Kehittämissäätiöによる,11月末から12月初頭にかけての世論調査)に関する簡単な追記をしておきたい.この調査の報告書はこちら(pdf)にある.

 

国営放送Yleの報道によると,回答者の51%がベーシックインカム構想を支持し,23%が反対,残りが「分からない」と回答したということである.また,68%の回答者が,失敗した場合の痛手を和らげてくれるので,ベーシックインカムによって起業しやすくなると回答している.

 

地方自治体開発財団のウェブページによると,職業別にいうと,最も支持が高かったのは失業者(71%),企業家(63%),学生(57%)の順であった.また,63%の人が,ベーシックインカムの導入によって,現行の社会保障制度にかかわる官僚制システムを解体することが出来るだろうという見解に賛成し,60%の人が,社会保障の受給に必要となる現行の資力調査(ミーンズテスト)の労力を削減できるだろうという見解に賛意を示している.

 

しかし,69%の回答者は,ベーシックインカムの金額決定は,政党間の果てしない論争をもたらすと予想している.

 

このように,直近の世論調査によれば,国民の支持はそれなりに高いものがあるし,期待も大きいと言えるだろう.しかし,金額をいくらにするかについては,難しい問題を孕んでいることを示唆している.

ベーシックインカムの検討が始まった (3)

2. ベーシックインカムに対する支持動向

次に,ベーシックインカム構想に対する国民の支持動向を,社会保険機構が発表した調査結果を基に整理しておこう.以下の表は全て,この調査結果からの引用である.

 

まずは,ベーシックインカム(perustulo)構想,およびそれに関連する「負の所得税」(negatiivinen tulovero)構想に対する支持率(「大変よい構想だ」「どちらかと言えばよい構想だ」と答えた回答者の合計),および,ベーシックインカムの適切な給付金額について,2002年と2015年の両時点で調査した結果は次の通りであった.

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ベーシックインカムの検討が始まった (2)

(承前)

 

政治勢力的に見ると,これまでベーシックインカム構想を最も熱心に支持してきたのは緑の党(Vihreät)であり,左翼連合(Vasemmisto)もどちらかと言えば支持してきたとされる.特に緑の党のOsmo Soininvaara氏は熱心な擁護者であったとされる.とりわけ緑の党は,選挙公約にしばしば「ベーシックインカムの実現」を掲げてきたという経緯がある.

 

それ以外の政党はどちらかというと,ベーシックインカム構想に冷淡だったとされる.ベーシックインカムに強く反対する労働組合と公務員を主な支持母体とする社会民主党(SDP)は,伝統的にベーシックインカムに反対してきた.他方,中央党(Keskusta)や国民連合党(Kokoomus)といった中道保守政党は,反対ではないものの不熱心というスタンスであった.すなわち,少なくともフィンランドについて言えば,「左派政党が賛成し,右派政党となるほど反対する」というような単純な政治的構図ではなかったようである.

 

大変興味深いのは,自由放任を信奉するBjörn Wahlroos氏(巨大金融グループであるサンポグループの取締役会長)は,早くも2001年の段階ですでにベーシックインカム構想に賛意を表明していることである.彼の論拠は,「短期雇用契約が増えてゆくのは不可避だから,そういう新しい状況の下で雇用の不安定性と貧困を解決する有力な方法である」というようなことである.このことからも,ベーシックインカムが必ずしも左派・リベラル派の「専売特許」ではないと気づく.

 

しかし,ベーシックインカム構想を支持する政党が提示する給付額は,生活を維持するには概ね低すぎるものだったのも事実である.例えば緑の党は月額440ユーロ,左翼連合は620ユーロを提案していたという.上記のBjörn Wahlroos氏の提案は月額850-1,000ユーロが必要だというものであった.さらに参照したHelsinki Timesの記事(後出)の計算によれば,貧困を根絶するためには月額1,166ユーロが必要だということであった.

 

(以下,続く)

(付記その1)政党支持の動向について付記しておくと,12/18付Helsingin Sanomat紙は,最新の支持政党調査に基づき(TNS Gallup実施),社会民主党への支持率が急上昇し(21.1%),中央党(20.9%)とトップで並んでいると報じている.記事から抜粋した右のグラフのピンク色が,社会民主党(Sdp)への支持率の推移である.この背景には緊縮政策への不満があるという分析を,この記事は引用している.なお,連立政権を組む中央党はKesk,国民連合党はKok,真のフィンランド人党はPsである.

 

(付記その2)国営放送Yleの記事によれば,大晦日に発表された首相の年頭メッセージは,さらなる財政支出削減を予告している.そのうちには,後に触れる予定の「社会保健制度改革」による支出削減40億ユーロが含まれている.また,主に労働市場改革によって単位労働コストを5%低下させて国際競争力を増すことによって,20億ユーロの税収増を見込んでいるとされるが,それが実現できない場合は,2017年春からのさらなる緊縮財政によって20億ユーロを確保するつもりだという.本稿の最後に書くつもりだが,少なくともフィンランドにおいては,ベーシックインカム構想はこうした一連の新自由主義政策の文脈と切り離しては評価できないのではないだろうか?

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ベーシックインカムの検討が始まった (1)

昨年11月にフィンランドに滞在する直前に,フィンランドの社会保険機構(Kela: Kansaneläkelaitos)がベーシックインカム実施の検討を開始するという小さなニュースを見た.現地滞在中はもっぱら,あとで書く「社会保健制度改革」の激論の最中だったから,ベーシックインカムについては,現地の友人たちとほとんど話題にしなかった.ところが12月7日には,フィンランドでベーシックインカムの導入が決まったかのような報道(たとえばこちら)が相次いでなされた.これは誤報で,直ちに社会保険機構も「初歩的な研究を始めたばかりだ」と火消しを行ったものの,反響は大きく,日本でも大きな話題になった.ちなみにベーシックインカムは,全国民に対して生活上最低限必要となる現金を政府が給付するという仕組みを意味する.フィンランドで検討しようとしているベーシックインカムは,特にuniversal basic incomeと言われている.universal(普遍的)という言葉は,無条件に全国民に給付する,という点を強調して付けられている.

 

私自身,社会保障を専門に研究しているわけではなく,門外漢である.ただ,フィンランドを調査研究対象にしている以上,この動きを無視できないと強く感じてもいる.そこで覚え書きとして,事実関係を中心に整理しておきたいと思う.なお,ベーシックインカム研究の第一人者である山森亮氏(同志社大)によるこちらは,専門家による整理・見解として参考になる.

 

参考にした資料は,末尾にまとめて挙げることにしたい.

 

1. ベーシックインカム導入検討の現段階と目的
社会保険機構がまず行おうとしているのはベーシックインカムの社会実験であり,2017年の実施が計画されている.現在はまだその初歩的な研究段階であり,社会保険機構の研究部門とヘルシンキ大学,タンペレ大学,トゥルク大学,東フィンランド大学,政府イノベーション基金Sitra,シンクタンクTänk,および経済研究所VATTからなるチームが研究に当たっている.この研究プロジェクトは,フィンランド政府の「分析・アセスメント・研究計画」のひとつとして実施されている.2016年春に他国での実験結果のレビューを行い,2016年の後半に実験デザインが構築されるというスケジュールである.以上のことから,社会実験を入念に計画・実施した上での制度設計・導入を構想していることが伺え,到底,直ちに導入されるというような状況にはないことが分かる.

 

社会実験の目的として政府は,(1)社会保障システムを労働市場の変化に合わせて作り替える方法を探ること,(2)労働のインセンティブを維持し高めるベーシックインカムの仕組みを探究すること,(3)社会福祉システムを単純化し,官僚制的な仕組みを削減すること,以上3点を挙げている.うち(1)の「労働市場の変化」とは,失業率が8.2%(2015年11月: Statistics Finland)にものぼる状況を指しているものと思われる.後述するように,現政権は強度の緊縮財政を実施する中道右派連立政権であるが,以上の3項目は,緊縮財政路線と整合的である.事実,Juha Sipilä首相(中央党)は,「私にとってベーシックインカムとは,社会保障システムを単純化するという意味を持つものだ」と述べていると報じられている.つまり,ベーシックインカム導入が検討されているのは,必ずしも福祉国家の理念からではなく,福祉支出の削減という多分にプラグマチックな動機からであるようだ. 
(以下,つづく)

 

追記:以下の図に見られるように,フィンランドの失業率は歴史的に高水準で推移してきたことも事実であり,高失業は必ずしも最近の現象ではない(縦軸は失業率 (%)/出所:OECD Statisticsより筆者作成).
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本業の利益と金融活動からの収益

以下は,すでに研究や議論がある,新しくもない事柄かもしれないが,覚書のつもりで書きます.

 

最近,ある中小企業の社長さんから,「本業では儲からない,資産運用で何とか利益を出していますよ」という話を聞いた.ちなみにその話は,昨今の株高の恩恵に与っているのは,すでに資産をなした人間だけであって,資産を持たぬ者にはそもそも同等には市場にアクセスできないから,「豊かな者はますます富んで,貧しい者は貧しいまま据え置かれるわけだよね」と,格差社会の酷薄について,その社長さんが酒席で語っていた時に出た話だった.

 

こうした,本業の低収益を,株式運用などの資産運用益でカバーするという構図は,中小企業一般に見られるものなのか,疑問に思ったので,「法人企業統計」(財務省)を少しいじってみた.本業の利益は「営業利益」で,金融からの収益は「営業外利益」で捉えることができる.だから,営業外収益と営業利益の関係について検討してみよう.

 

(なお,本来ならば営業外収益と営業外費用はセットで問題にしなくてはならないと考えられるが,営業外費用には金利支払いが大きな割合を占め,資産運用に伴う収益を問題にする場合あまり適切ではない.したがってここでは,営業外収益のみを対象にしていることをお断りしたい.ただし,営業外費用を考慮に入れて分析しても,以下の議論の大勢には影響はない.また,傾向を示せれば十分だから,ここでは最小規模と最大規模の企業の場合についてのみ示している.)

 

まず,資本金1,000万未満の(非金融)企業について,「営業利益」および「営業外収益と営業利益の差」を表したのが次の図である.

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ピケティの Capital in the 21st Century (1)

年末に,大学時代の友人たちと忘年会で会った時に,ピケティの話になった.英訳版も日本語版も手には入れていたが,読めていなかった.忘年会をきっかけに,空いた時間に読んで検討してみようと思いたった.スローな頻度になると思うが,読書ノートをここに上げていこうと思う.まずは序章から・・・


(Introduction)

・富の分配は,最重要問題の一つだが,長期的なその変化をどうやって知りうるだろうか?マルクスが考えたように,民間の手による資本蓄積は不可避的に,富の集中をもたらすのか?あるいはクズネッツが論じたように,経済発展の後期に至れば,経済成長や競争,技術進歩の諸力のお陰で不平等は低減するのか?18世紀以降の歴史から何を学ぶことができるのか?今日の状況に対する教訓はなにか?本書はこれらの問いに答えようと試みるものである.
・近代経済成長と知識の普及によって,マルクス的な終末を避け得たが,資本と不平等の深層構造は変わっていない.資本収益率が成長率を上回るという状況は,19世紀や現在に見られるが,その下では資本主義は自動的に,不平等を生み出す.それは民主主義社会が基盤として持っている能力主義的な価値を掘り崩す.だが,民主主義はこの状況をコントロールする方法を持つはずである.
・所得と富の分配の議論は,体系的・組織的になされる必要がある.それによって経済学などを厳密科学に転換するという意味ではない.事実とパタンを我慢強く探し,それを説明するメカニズムを淡々と分析することで,民主的な討論に情報を与え,正しい問いに焦点を当てさせることが,社会科学の役割である.私見では,勉強の時間が多く与えられているという特権を持つ知識人の役割はここにある.
・リカードの格差論は,地主に焦点があって,その格差メカニズムは土地の希少性に基づく.言うまでもなくマルクスは資本蓄積の運動にそれを求めた.現実に,19世紀は格差拡大の時代であった.資本は繁栄し,労働所得は停滞した.
・クズネッツは,データを準備した点が偉大.しかし,20世紀中葉の所得格差の縮小を,一般的な法則だと見なして理論化する道に.ソローのモデルも同様の意味.
・1970年代以降,格差が拡大した.だから,所得格差の問題を経済分析の中枢に据えるべきである.
・本書の結論の第1は,格差拡大は経済決定論で論じることはできないということ.例えば,1910-50の所得格差縮小は,戦争とそれにかかわる政策の影響.1980年代以降の格差拡大も,政策の影響.第2の結論はより本質的.つまり,富の分配を平等化・不平等化するメカニズムが存在すると言うこと.特に,経済成長が停滞し,資本収益率が高い場合.r>gということ.
・(ピケティ自身は)米国で22歳の時に大学に雇われた.だがフランスに帰りたかった.米国では経済学者が現実問題に取り組んでいなかった.フランスでは経済学者は尊敬されていない.経済学者は歴史学者などの同僚,また一般の人を説得することに関心を持っている.

(コメント)
*政治経済学者としてのありかたにかんするコメントは,知識人の生き方として大変示唆的だ.現実の問題に解を出そうとすること,それをできるだけ厳密に労を厭わずに行おうとすること,経済学者以外の人々を説得しようと努めるべきこと.
Dumenil and Levy(2013) The Crisis of Neoloberalismは,新自由主義を,黄金時代に低収益に据え置かれた資産所有者の反乱だと解釈した.また,豊かになった労働者が資産形成し,それが金融化に道を開いたという側面もあると思う.要するに,資産管理の社会的体制が作られていないと言うことに問題があると感じる.そこには,Tobin taxなどの役割があるのだろうし,ケインズの「投資の社会化」論が意味を持つのではないか?
*図2の方は,K/Yの上昇を示している.利潤率R/K=Y/K*R/Yである.利潤率低下を避けるためには,R/Yすなわち資本分配率が上昇しなくてはならない.これは恐らく,1980年代以降,労働規制緩和などによって実現したと思われる.ピケティは,K/Yの増大自体が問題の根源であるように論じている.しかしそれは正確ではない.K/Yの上昇が所得不平等をもたらす自動メカニズムは存在しないと思われる.問題は,R/Yを上昇させるような政策・制度変化であろう.
*さらに,g=srというケンブリッジ方程式との関係も問題だ.要検討課題. これはまた後に.

財務省資料:教育向け公共支出の計算方法について

財務省資料の6ページでは,「在学者一人当たり年間公財政教育支出」を示していて,「公財政支出を在学者一人当たりでみると、OECD平均と比べて遜色なく、G5諸国と同水準」だという主張がなされている.ここでの計算方法には疑問がある.結論的に言うと,数値が「かさ上げ」されて算出されるからである.


計算方法のポイントは,「在学者一人当たり年間公財政教育支出」を「国民一人当たりGDP」で割っていることである.ここで在学者数をNs,年間公財政教育支出をEe,人口をN,GDPをYとすると,算出しているのは(Ee/Ns)/(Y/N)=(Ee/Y)*(N/Ns)である.もちろんEe/Yは,GDPに占める教育向け公共支出の割合である.ところで日本は高齢化が急速に進んでいるから,N/Nsは他国に比べて高い.したがって,他国に比して「GDPに占める教育向け公共支出の割合」が低くても,大きい値をとるN/Nsを掛け合わせることで,6ページの数値はかさ上げされる.


もう一つ.(Ee/Ns)/(Y/N)で,日本よりも一人当たりGDPが高い国は欧米で多いので,Ee/Ns,つまり在学者一人当たり年間公財政教育支出もまたY/Nで割り算することでかさ上げされる.


つまり,財務省資料は,少子高齢化が進むから,また,日本は一人当たりGDP(→「労働生産性」と概ね読み替えられる)が低いから,教育向け公共支出を削減することが適当だ,と言っていることになる.それが本当に正しいのかどうか,教育現場に即した検討を,きちんと行う必要がある.

「フィンランド教育」の視察ブームが過ぎて

今回の滞在で思いがけず耳に入ったのは,政治家による「視察」のこと.「フィンランド教育」の視察ブームは過ぎ去って,現在では「オンカロ」視察ブームらしい.両方の視察ブームには,失笑を禁じ得ない話も,また笑うに笑えない話も多々あるとのこと.特に「笑うに笑えない話」の方は,納税者が聞けば頭に血がのぼるに違いない話題だった.

 

さて,フィンランド教育の視察についてだ.視察が繰り返されたが,日本の教育が変わったようには見えない.好意的に解釈すれば,教育の文化を変えるのは一朝一夕では行かないと言うことだろう.だが率直に言って,乏しい教育財政の問題をまずは解く必要があると思われる.

 

以下の図は,OECD Education at a Glance 2014から,試しに作成してみたものである.この図は,初等・中等教育に対する公的支出の対GDP比率を表す.フィンランドは4.2%,日本は2.7%,OECD平均は3.6%である.最高はノルウェーの5.3%であった.

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服部茂幸『アベノミクスの終焉』(岩波新書)

 福井県立大の服部さんから,上記の本を恵送いただいてから時間が経ってしまった.

 服部さんのこれまでの主張は,米国の経済政策が日本の(1990-2000年代の)過ちを繰り返しているということだったが,本書によれば,現政権下での日本の経済政策が米国の(2008年以降の)過ちを繰り返しているということになろう.いわば,過ちの上に過ちを塗り重ねていることになる.そういうことが,実証的に論じられている.

 是非とも前著とあわせて,多くの人に読まれて欲しい.

中部経済新聞 9/11「企業と地域産業の進化論」

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企業と地域産業の進化論
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 同僚K先生つながりで,「企業と地域産業の進化論」という小文を書かせていただいた.

 多様性を維持・創出する仕組みについてしか書いていないから,本当は進化論になっていないのだが,コラムということでご容赦を.

 またもちろん,多様性が闇雲に「いい」というニュアンスになってしまっているかも知れない.望ましい多様性/望ましからぬ多様性,という問題については,Scott E.Page (2007) The Difference. (Princeton U.P.)邦訳あり)が厳密に論じていて,大変面白い.この本は,ある(元)技術者の方がブログで論じているように,研究開発の現場にとっても現実性があるようだ.

 ともかく,進化経済学の観点から研究開発・製品開発をどう見ることができるのか,また進化をつかさどる仕組み・制度はどのようなものか.こうした問題を,現場の教示を得ながら詰めていきたいと思っている.

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多様性はどうして大事か?:David Stark (2009) The Sense of Dissonance: Accounts of Worth in Economic Life (Prenceton UP)

 更新が久々になってしまった!

 社会や組織には多様性が必要不可欠だという主張はよく耳にするし,現在では常識的ですらある.だがこの主張は,「異文化を受け入れることは大事だ」という,かつての大学入試小論文の定番問題とどことなく似て,本気で受け止められているとは思えない「軽さ」がある.それは恐らく,多様性があるとなぜ「いい」のかが,現実に即して本気で探究されていないからだと思う.経済社会学者のDavid Starkによるこの本は,組織における多様性の意味についての深い探究である(邦訳『多様性とイノベーション』中野勉・中野真澄訳).事実,この本に登場する調査研究の年季は,ハンガリーの社会主義企業における調査以来の20年弱で,問題意識の醸成にも同じくらいかかっているという.

 不協和に意味があるという原タイトル通り,「多様な評価原理の持ち主が共存・相互作用し,摩擦が生じるがゆえに,組織の創造的対応が可能になる」というのが,本書の基本的主張である.この主張が,3つのエスノグラフィに取り組むことで生み出され,丁寧に吟味されている.古くはアシュビー(Ashby, W.R.)の「必要多様度の原理」がそうであったように,複雑な環境に相対する組織が,自らの内にそれ以上の多様度を持った解決策を持ち,自らを複雑化しておく必要があるという主張は,これまでもあった.しかしスタークの強調点は,単に多様な解決策を準備しておくべき,ということではない.そうではなくて,摩擦を伴う多様性の「交配」によって新規性が生み出されるという点を彼は強調する.このことを,エスノグラフィを通じて彼は示している.例えば,資産取引に従事するディーリングルーム内部に踏み込んだ彼は,マネジャーがディーラーたちの思考・判断基準を多様に保とうとしていることを見いだす.変化が激しい市場で,思考・判断基準が一様化してしまうことは危険なのだ.またディーラーたちは,周りの者たちとのやりとりの中で,自身の基準を刷新していくのである.このプロセスは多分に即興的である.

 われわれは,同一の評価原理を組織成員が共有しているからこそ協調・調整が可能になって,組織が存続しうると考えることに慣れているから,多様性に伴う摩擦があるからこそ組織が存続しうるというこの主張は思考をとても刺激する.だがそれは,組織・社会にアンバランスが存在するからこそ人々の努力が引き出され,経済発展がもたらされるのだという,ハーシュマン(Hirschman, A.)の経済発展論ローゼンバーグ(Rosenberg, N.)の技術経済論に似ているし,また,都市の「輸入置き換え」による都市発展というジェイコブズ(Jacobs, J.)の都市発展論にもとても似ている.アンバランスは不快なものだから,人はそれを無視したいのだろう.しかし人の世が機械ではない限り,不協和・アンバランスの意味にもっと目を凝らすべきなのだと,改めて考えさせられた.

 この本には分からない点もいくつかある.第1に,この本は即興的なプロセスに注意を集中するが,時間がかかる技能・技術形成や能力構築のようなプロセスをどう考えるべきだろうか.変化の絶えないこの時代には「蓄積」的要素など必要ないという,かつての通俗的なポストモダン派のような考え方になるのだろうか.その系論だが,進化経済学派が組織ルーティンとか組織能力と呼ぶものは,スタークの議論の中にどう位置づけられるのだろうか.(不確実性が大きい状況下では)「価値について論争する枠組みが,組織の貴重な財産になるかもしれない」「不確実性を徹底的に活用する起業家精神に富む活動とは,個人の資質ではなく組織形態の機能のことであり,複数の評価原理が機能する状態を維持しつつ,生産性の高い摩擦から利益を享受する能力のことである」(邦訳36)「組織にはその形態の違いにより,持続的に生産的なパフォーマンスを測る基準間における生産的な競争関係を許容し,支える能力に差がある」(邦訳57).これらの引用は,ティース(Teece, D.)らのいわゆるdynamic capabilityの「ミクロ的基礎」を示唆しているようで非常に興味深いが,組織のこうした能力あるいは文化は,どのように維持・再生産されているのかという問いを惹起せざるを得ないと私は思う.それにはやはり,スタークの組織とは逆に,持続的・安定的な枠組みを必要とするのではないだろうか.

 第2に,こうした柔軟で創造性に富んだ組織は,成員にとって負荷が大きい組織でもあると想像する.個人の柔軟性を過度に要求する組織・社会は,個人にあるべき「錨」を喪失させる.その病理については,リチャード・セネット(Senett, R.)が執拗に論じてきた通りである.では,柔軟で創造性が高い組織は,はたして,また,いかにして,持続可能なのだろうか.持続可能性は別の観点からも問うことができる.不協和を通じた調整という,本書が焦点を当てるプロセスは,レスター(Lester,R.)とピオリ(Piore, M.)が言うところの「解釈」プロセスに他ならない.彼らは,発見的なこの解釈プロセスはオープンで制約を受けないものであるから,収益圧力を遮る制度的シェルターが必要だと述べる.そのシェルターの例はかつての中央研究所だが,それも収益圧力によって存続が難しくなっているという.そうだとすると,厳格化している収益管理の影響を,どのように考えたらよいのだろうか.テングブラッド(Tengblad, S.)による,マネジャー行動に関するエスノグラフィは,株式市場の圧力から現場に天下ってくる収益圧力が,確実に現場マネジャーの行動を変質させていることを示唆している.つまりStarkは,Lester and Pioreに比して,新自由主義がもたらす影響に対して楽観的すぎると思われる.

 最後に,とても興味深い指摘を一つあげておきたい.われわれは社会主義崩壊の原因を,市場メカニズムの欠如に求めることが普通であろう.それは効率性という基準の欠如を意味しているだろう.しかし彼は「多様性が少ないがゆえに適応能力に劣ったシステムが,多様性が多いシステムに敗れた」とする仮説を示唆している.そこでは「政治,経済,宗教,芸術等の分野に多様性があり,そこはマーケットに従属しない原理で構成されている」(邦訳391)と捉えられている.このことは,経済社会を効率性基準に一元化させることは,経済自身をすら弱体化させることを示唆しており,意味深である.構成原理・原則を一元化させない社会・経済・組織というものへの想像力を養う必要があるのではないかと痛感させられたが,それは生活上も研究上も,とても難しい課題だと感じる.

 

 このように本書は,私にとっては問題解決を提示してくれる易しい本ではなく,研究・検討すべき問題の所在を多様に示してくれる,噛み応えに満ちた本だった.組織問題を日々経験する社会人や,多様性というものに対してみずみずしい感性を持っていると思う学生・院生諸氏はどう考えるだろう?ぜひとも議論してみたい一冊だ.

服部茂幸『新自由主義の帰結』(岩波新書)

福井県立大の服部さんが,以下の本を出された.

小著にもかかわらず,盛りだくさんの内容で,なおかつクリヤーです.

19世紀の資本主義ならともかく,現代資本主義では自由放任主義は機能しない,というのが,ケインズの議論だと私は理解しますし,それが服部さんの議論の骨格にあります.

ぜひ,広く読まれて欲しいと思っています.

 

服部茂幸『新自由主義の帰結 ―なぜ世界経済は停滞するのか』
224ページ, 岩波書店,2013年。

まえがき―経済危機と新自由主義経済学
第1章 新自由主義とは何か
1 ケインズ主義から新自由主義へ
2 新自由主義の理論と政策
3 新自由主義の理論的問題
4 第二の大恐慌は新自由主義の帰結
第2章 経済復活という幻想
1 資本主義のルールが変わった
2 バブルと負債に依存するアメリカの経済成長
3 アメリカの「失われた四〇年」
4 日本の「実感なき好景気」
5 新自由主義は何に成功したのか
第3章 カジノ資本主義と頻発する金融危機
1 新自由主義経済学と金融危機の時代
2 金融危機を引き起こした技術革新
3 危機を拡大させるFRB
4 金融危機を引き起こした理論の欠陥
第4章 グローバル・インスパイラル
1 二つの世界的なインバランス
2 グローバル・インバランスと住宅バブル
3 問題解決できない国際通貨システム
第5章 金融危機から財政危機へ
1 広がる財政危機
2 共和党保守派の放漫財政
3 第二の大恐慌における財政悪化の原因は何か
4 日本の財政危機の原因は何か
5 財政悪化と新自由主義
終章 新自由主義を超えて
1 新自由主義のレジームのオーウェル的世界
2 新自由主義の犯罪
3 アメリカの「失敗」から学ぶべきこと
参考文献
あとがき

 

中日新聞の記事

10/14の朝刊で,岩手県で畜産加工業をやっている高校の同級生が1面トップに載った.逆風にもかかわらず,セシウム汚染濃度を製品に掲示し続けている.

 

穴田君が売らずにいる良心が,彼にこの掲示をさせているわけだ.しかし,いつまでもいつまでも,この人災の安全対策を,彼個人の良心に重く負担させ続けてもいいのだろうか?事実,消費者庁には何の動きもないことを,記事の最後には触れている.またゆくゆくは,この人災に責任のある者が,数多くの食料業者に対しても「債務」を返すべきではないのか?

 

関心のある方は,アクセスしてみて下さい.

 

https://www.facebook.com/pages/モーとんふぁみりー/322372137801289

複雑適応系としての組織:Tim Harford "Adapt"

現在,IT中小企業への聞き取り調査のためインドに来ている.インドについても書きたいことがあるのだが,それは後回しにしたいと思う.

 

いつも空港で本屋に寄って,機内で読むかなと思って本を買ってしまう.得てして機内では寝てしまうからほとんど読まずじまいなのだが,懲りない性格だからまた今回も何冊か買ってしまった.デリーへの移動途中にバンガロール空港で買ったのが上の本.日本語訳も出ているようだ.

 

社会や組織の構成員が直面する環境は複雑だということを踏まえる限り,社会や組織が新しいことに取り組もうとするプロセスは「試行錯誤」であらざるを得ない.だから「変異+淘汰」で進化を説明するダーウィン的な考え方が非常に有用なのだ.つまり,(社会にとっての)政治とか,(組織にとっての)マネジメントとかというのは,進化プロセスをうまく「手なずける」ことに他ならないというのが,著者の認識だ.

 

しかし,言うは易し,行うは難し.どこにその障壁があるのかを,これでもか,これでもかというくらい執拗に事例を挙げて論じている.ここに本書の特徴がある.

 

個人的には進化論の考え方はなじみ深いし,組織現象を複雑適応系として見なくてはならないというのは,結構古くて根深いテーマだ.しかし,これほど生き生きと事例を見せてくれる本はなかったと思う.「読ませる本」だ.

「雇用の劣化」:6/2 NHKスペシャル

雇用の劣化にどう対処するかをテーマにした討論番組で,面白かった.

 

提言者として最初に登場した藻谷浩介氏は,企業の付加価値の分配を配当・内部留保から賃金にウェイトを移すべきだという内容の提言だった.これは行き着くところ,小手先の対処にはとどまらず,ステイクホルダー型企業から株主重視型企業に変質したと例えばドーア『誰のための会社にするか』が主張するような,近年の日本の株式会社体制をどうすべきか,例えば会社法をどうするかという本質的な問題に行き着かざるを得ないのではないか.

 

次の提言者だった古市憲寿氏は,そうは言わなかったが,提言内容は「換骨奪胎された北欧(特にデンマーク)モデル」だと言ってよい雇用モデルだった.それゆえ,その内容自体は新しくはないが,大変興味深かったのは,賛否を問われると,40代以上に反対が多かった反面,30代以下の若年層の支持率が大変高かったことだ.これは,日本での北欧モデルの追求が非現実的であり,同時になおかつ現実的でもあるという屈折した実態を表現していると思う.非現実的であることは,高年齢層が認識する通り,目下の日本の社会システムや人々の観念とあまりに懸隔があると言うことだ.しかし現実的であるとは,若年層が認識する通り,目下の日本の社会システムへの参与可能性が低い者にとっては,その方が公正で正当化できるシステムだと言うことだ.いずれも生々しい現実認識に根ざしている.

 

とは言え,古市氏の提言について言えば,「強い個人」を前提としている点が北欧モデルとは大きく違うと思われる.確かに北欧モデルは,ある程度は,能力自己開発に努める積極的な個人を前提にしてはいるが,彼らを支える組織・機関が充実している点が明白な特徴だ(例:産業別・職業別労働組合).それはエンジニアはもちろん,上級マネジャーや大学の教職員にとってすらそうである.

 

古市氏の提言での社会とは,ノマド・ワーカーのように,会社や組織・政府に依存しないで,自らリスクをマネージする,有能で強い個人が構成する社会と言うことのようだ.この点については,Barley and Kunda(2004) Gurus, Hired Guns, and Warm Bodies: Itinerant Expert in a Knowledge Economyという本が実に示唆的だ.自立的なコントラクターとして働くプロフェッショナルたちなど,企業組織から一定の距離を保って働くことに誇りを持って働いている人々であっても,結局は,昔のギルドのような同業者組織的なものが必要となっていることを実証的に論じている.つまりは,「コレクティブなもの」に支えられての個人,という認識に,当事者たちは至り着かざるをえなかったのである.有能感に充ち満ちた彼らですらそうなのであるから,いわんや,サイボーグではあり得ない,人間らしい強さと弱さをあわせもった市井の人々をや,である.

 

何が言いたいのかというと,古市氏の提言も結局は,「どういう企業にするのか」「労働組合はどうあるべきなのか」等々の問いを避けているのではないかということだ.政府がどうあるべきか,個人がどう働きどう生きるべきか,これらの問いはもちろん大事であろう.ところが,政府と個人の間に広がる組織・制度のあり方も同等に大切なはずである.

 

【追記】

(その1)そもそも人は,それなりにフレキシブルに生きられることは確かだが,とはいえ安定性を本質的に必要とする存在のようだ.Richard Sennett (1999) The Corrosion of Character(邦訳『それでも新資本主義についていくか』)や,同(2006) The Culture of the New Capitalism(邦訳『不安な経済/漂流する個人』)は,リストラクチャリングが急進展した米国でのフィールドワークに基づいて,フレキシビリティの徹底的追求は個人のアイデンティティを腐食させる作用があること,それゆえ人間を危機に追い込む作用があることを鋭く指摘している.

 

(その2)個々人はそれなりに合理的に,リスク分散を試みようとするだろうし,実際に「それなり」のことは可能かも知れない.しかし,その結果として社会全体のリスクが減るかどうかはあくまで別問題である.否,往々にして減りはしない.これは私たちが,金融危機でつぶさに目にしたことに他ならない.そもそもリスクの増大は社会現象なのだから,あたかもそれを不可避な自然現象であるかのように語ることには慎重であるべきだろう.もちろんこのことは,「社会現象である以上リスクを解消できる」ことは全く意味しないこと,言うまでもない.

【覚え書き】金を集めること・金を使うこと

日本は巨額の財政赤字を抱えているから,まずは「金集め」=政府の税収確保が喫緊の課題であることは分かる.ところが,「金づかい」=集めたお金をどう使うかということに関する議論も必要であることは論をまたない.些末に陥らずにそうした議論をするためには,「どういう社会を目指すべきか」という大きなビジョンが必要なのだということは,例えば宮本太郎『生活保障』(岩波新書)などがつとに強調するところである.

 

だが管見の限り,目下の日本での議論は「金集め」の方法や是非にあまりに集中しすぎているような気がする.私は財政学の専門家ではないけれども,次のような事実が気になったので,覚え書きをしておきたいと思った.

 

以下の図はいずれも,2009年の『経済財政白書』から取ったものである.1番目の図は,OECD諸国における,税金・社会保障による所得再分配前の所得格差と,所得再分配後の所得格差を示している.ジニ係数が低いほど,所得格差は小さい.これによると日本は,所得再分配前の所得格差はそもそもさほど高くない.むしろ独仏などの大陸欧州諸国の方が格差は大きい.ところが所得再分配後の所得格差は,ほとんどの欧州諸国よりも格差が大きい.例えば,再分配前には日本よりも大きかった独仏の所得格差は,所得再分配後に大幅に縮小している.つまり,日本の「所得再分配効果」は多くの欧州諸国よりも低い.韓国や米国は所得再分配効果がもともと低い.

 

次に,2番目の図は,再分配効果を「公的移転」「税」に分けたものである.これによれば,日本はこれら2つの再分配効果が小さい上,特に税による再分配効果がきわめて小さいことがわかる.

 

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「グローバル人材」

最近Facebookで,2人の友達がこれについて書いていた.


気になってgoogleで"global human resource"を検索してみると,たいていはglobal human resouce managementというような形で使われているようだった.つまり"global"の語は例えば"management"に掛かっているのであって,往々にして"human resource"には掛かっていないようである.ちなみに検索結果のうちにはJapan Timesの広告記事の1件があった.それはご丁寧にも引用符付きで"global human resource"とされていて,この用語法が日本的なものであることを強く示唆していた.


加えて,ものづくり系のコンサルタントとして海外見聞の多い方に尋ねてみた所,欧州・米国はもちろん台湾,香港などでもそういう呼び方はしないとのことだった.もちろん,これらの国・地域の企業がすでに著しく国際化している結果,あえてそういう呼称をする必要がないからかも知れない.あるいは,「グローバル人材」という考え方自体が存在しないのかも知れない.


何が言いたいのかというと,「グローバル人材」という用語法はもちろん,そういう発想法というか思考様式自体が<日本的>なのかも知れないということだ.「グローバル人材を求める」という発想法は,「世界中のどこにもいない人」=幻影を求めているに過ぎないのかもしれず,所謂「神様スペック」の人をそう称しているだけかも知れない.


いやいや,その言葉は現実に日本企業・経済・社会のニーズを反映しているんだよという反論もあるだろうし,「それらしい」人が確かに求められていることは否定できないだろう.しかし少なくとも,「グローバル人材」という言葉を使うことは,事実関係を明確にするよりも曖昧にする効果があること,それゆえに人々(特に学生)を浮き足立たせるアジテーション効果が強烈にあることくらいには,自覚的になった方がいいように思われるし,そうして欲しいとも思う.


ともあれ,何故日本では「グローバル人材」という言葉がこれほどに疑いなく通用するのかというのは,雇用慣行とか企業組織の特質に根ざした,なかなかに根深い問題だと思える.

【追記】研究室の院生(韓国出身)によれば,韓国でもグローバル人材に似た表現があるとのこと.それには,日本と同様の意味に加えて,海外留学から帰国した人をも指すようである.だとすれば,韓国と日本とは共通性が大きいようだ.

簡易版・食器乾燥器

外から見ればタダの棚
外から見ればタダの棚

工科系大学で働くようになってから,技術というものが今まで以上に気になるようになった.それはそうだ,ほぼ毎週,技術系院生の研究プレゼンを聞いているのだし,一家言ある先生たちとお付き合いさせていただいているのだから.

 

こんなことは先刻周知と怒られそうだけれども,一つ最近思うのは,所望の機能を果たすために最低限のエネルギー消費で,つまりはできる限り自然界の作用を利用したデザインというのが理にかなっているのではないかということだ.

 

この写真は,フィンランドで部屋を借りるとたいていキッチンに付いている設備だ.外観はまったくの収納棚なのだが,扉を開けると実は食器乾燥器.とはいえ電気を使うわけでもなく,洗った食器を「干す」といった感じ.この下は流しなので,水が滴下するのも問題ない.理にかなっているなあといつも感心する次第である.

 

食器を乾かすというと,「電気で温風を使うか?」「いやガスで乾かそうか?」という議論をすぐに始めてしまいそうな私自身だけれど,知恵を絞って理にかなったシンプルさを実現するという欧州的なあり方には学びたいといつも思う.

 

これまた思いつき的な仮説なのだけれど,製品の姿というのは,その組織なり社会なりの姿を,あたかも鏡像のように反映しているのではないだろうか.もちろん単純な「反映」というのは,社会現象である以上ありえないのだけれど,関係性がよく整理されていない組織はやはり,関係性が整理されていない製品を生み出すのではないだろうか.直感ではあるが,「北欧デザイン」等々を安直に真似するだけではすまない問題がここにはあるように思う.

 

では,「よく整理されていない組織」とはどういう組織なのか?これについては,夏までには出版されそうな,共同研究成果の本の中で,共同研究者のある先生が分析している日本企業の製品開発組織に関する結果がとても示唆的だった.また改めて論じたいと思う.

トゥルク大学で

写真は2011年3月のもの.トゥルクはかつての,スウェーデン治下のフィンランドの首都で,今でも(相対的に)スウェーデン語人口が多い,フィンランド南西岸の都市.古都らしく,人々の気位が高いというのを聞いたことがある.そういえば一緒に議論をしたトゥルクの研究者達も,最近の政府の「イノベーション戦略」に対して批判的な意見を持っていて,意外な感じを受けた.というのも,ヘルシンキで話をした研究者達は概して,それを好意的に受け止めていたから.そういうことも含めて,個人的に興味関心をそそられる都市である.

 

壁面には「自由な知識へ向けた,自由な人民の贈り物」と書いてある.どういう背景があってこれが刻まれたのかは分からないし,現在の大学の実態も定かではないが(事実,つい最近行われた大学統合や法人化に対しては,反対意見がいくつも聞かれた),古きよき教養理念の大学らしい「いかにも」な標語で,さすが堂々としたものだなと,感じ入っておりました.

 

ちなみに,キシリトールが生まれたのもトゥルクだとのこと.それが大学からいかに生まれ,産業化していったのかを丹念にたどった研究発表を,たまたま鉢合わせたセミナーで聞くことができた.その内容はまたの機会に譲りたいが,夕方に終わったセミナー後に「懇親会」(=要するに「飲み会」)もなく,三々五々みなが帰宅するというのは,日本とは違うパタンで,個人的にはとてもフィンランド的なあり方だと思えて印象的だった.ちなみにこのパタンは,3月に滞在したFIOH(Finnish Institute of Occupational Health)でも一緒で,短いランチ(30分程度!)を共にしてバイバイ,であった!

レイヴ & ウェンガー (1993)『状況に埋め込まれた学習:正統的周辺参加』

「学習」という現象を,個人の単なる心理現象に還元してはダメであって,人間関係の中で生じる社会現象として本格的に扱わなくてはいけないというのが,本書の主旨だと思う.「学習をマネージ・管理する」という考え方が重視される昨今だが,学習というものの社会的・創発的性格を無視し,それゆえ洞察の深みを欠く設計主義・管理主義は,現実からのリベンジを食らうだろうというのが,私が本書から読み取らざるを得なかった含意である.

 

以下,感想・コメントを覚え書きしておきたい.

・肉屋の徒弟制の事例が面白い.徒弟を単に教え込む対象としてだけ見て,共同体への参加者として見ていないことが,学習を妨げているという事例である.また,スーパーマーケットの強い能率管理が,形式的には徒弟制がありながら,彼らには狭い限定的な仕事しか割り当てられず,実質的には実践共同体(CoP: Communities of Practice)形成を妨げている事例でもある.要するに,経営側の能率・管理志向の強さが,CoP形成の制約になり得る.

 

・「埋めこまれた」の意味は,ただ単に,知識が社会的文脈に埋め込まれているという意味ではない.そうではなくて,「学習」という行為それ自体が「生きる」「実践する」「仕事する」などの諸行為と不可分だという意味だ.そこで,学習はいわば「生ずる」ものだと理解できる.ある当事者の学習を検討する際には,その人が「生きている」文脈を検討することが必要だということになる.例えば,(公式・非公式)組織が持つ価値規範・文化,報酬体系,権力関係,等々.

 

・ここでの学習概念は,極めて中立的・分析的な概念である.例えば決して,学習は「いいこと」と理解されてはいない.学習は否応なく起きてしまうこととして中立的に理解されている.そう考えると,上記の肉屋の事例でも,学習は存在する.肉の世界のマスターになるために必要な,全体性を習得するような学習が生じていないということにすぎない.そう考えると,経済・経営系の議論は,学習の概念が狭すぎるのかも知れない.

 

・「教師-生徒」とか,「親方-徒弟」といった,「教え・教わる」という関係性の中で学習が生じるとしばしば考えられてきたが,それは正しくない.学習は教育ではない.学習は例えば,徒弟間の関係の中でも生じる.

 

・CoPへの参加度の進展が,学習を生起させる.例えば「一人前の職人になった」と認められるということは,共同体に,正統的かつ深く参加するようになることに他ならない.それが主要な動機付けでもあるということは見やすい.その過程で,アイデンティティも形成される.

 

・内発的動機づけ論は,面白い仕事を与えさえすれば動機付けとなるという理解だろうが,それは心理主義的に過ぎ,学習が「共同体への参加の深化・アイデンティティの確立」プロセスでもあるということを見ていない.つまり,仕事が面白いからやる気が出るのではなく,一人前と見なされて「共同体」の中心メンバーに近づくからやる気が出るのだろう.

 

・「現実に」学習がどうなっているのかが大事なのだ.「どうあるべきか」は,それから考えればいい.およそ人を操作対象と見なす議論は,学習とか労働という現象を客観的に理解することができない.経営者が与える「動機づけ」「管理」だけを見ていたら理解出来ない.職場で自立的に生成される「職場文化」「組織文化」を理解することが肝心だという含意になろう.ここで文化とは,主に価値観・価値規範を意味する.

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Bob Hancke(2009) Intelligent Research Design (Oxford UP)

覚え書きとして書きとどめておく.研究法は分かっている「つもり」だったが,そうでもない.いざ学生に説明しようと思う時,この本はとても有益なリファレンスだった.


(序章)

・事実はそれ自体何も語らない.それを意味付ける新しい理論があって初めて意味を持つ.これが,経験的な社会科学の考え方.

・観察と理論を対応付けることが,研究デザインの中心である.

・研究の問題は「存在」するのではない.作り出されるもの.しかも,理論的なディベートと強い関連性を持って作り出されるもの.

・研究とは,よりよい議論(argument)を作り出すもの.


(第1章)

・研究デザインとは,(単なる)アイデアを,確実な議論に変換するためのものである.

・社会科学は,deep structureを探求するものではない.

・研究はディベートの形式を取るものである.しかも,あるパズルを解くものでもある.パズルは与えられるものではない.構築するものである.

・科学論的に言って,議論の単なるサポートは研究とはならない.

・何を研究しているのかと尋ねられたら,「・・・について研究している」と応えるのではなく,「・・・という問いに答えようとしている」と答えるようにする.こうすることで,「問い」を明確に意識できる.

・問いは,反証可能でなくてはならない.また単純明快でなくてはならない.

・文献レビューは,対抗する「答え」を構築するために行う.つまりディベートを構築することがレビューの目的.レビューは短期間で,分析的に行う.だらだら網羅的に行うものではない.必要に応じて.

・データはfor exampleではない.それではargumentにならない.対抗馬を反証し,同時に自分の理論をサポートするような事例を見つける必要.「もし自分が正しくて対抗馬が間違っているとするならば,私は何を見つけるべきか?」「もし自分が誤っていて対抗馬が正しいとすれば,何を見つけるべきか?」

・問題を構築することが研究の過半の努力.問題は研究の最後に完成する.

relevantな問題を立てなくてはならない.「だからどうした?」と,自問自答してみる.

・問題を立てる上で,パズルを見つけることが大事.これまでの理論では解けない,体系的な観察がパズルである.それは単なる観察ではない.既存理論と関連付けられた謎だからこそパズルなのである.

・問題は,その答えが反証可能となるものでなくてはならない.また,既に生じた物事に関する問いでなくてはならない.


(第2章)

・統計的分析はある変数の限界的な効果を問うものだが,事例分析は複数要因の組み合わせ(configuration)がある結果に帰結することを問う.

・事例は,より広い問いに対しても光を当てるものでなくてはならない.事例選択の基準を明確にする必要がある.それによって,他の人が意見をいうことが初めて出来るようになる.

・事例は空間的・時間的に限定されている必要がある.その限定はロジカルになされている必要がある.

・事例間の比較可能性にも注意を払う.

・事例が持つ「次元」の数も大事.比較を考える場合,次元が一つなら事例数は2つでいいが,次元が二つだと,事例数は22=4個必要.


(第3章)

・「この事例は何の事例か?」ということを常に考える.より広い文脈に事例を置く必要があるということだ.

・単なる理論の描写として事例を用いるのも確かにケーススタディだが,弱い意味でそうであるに過ぎない.理論と結びついてこそだ.

process tracing case studyは,単一ケースを使うのだが,そこで作用している因果関係を把握することに力を注ぐ.例えば,代替仮説のどれが当該事例と首尾一貫しているかを確定することによって,危機時の政府の行動原理に説明を与える,キューバ危機の分析.

critical case studiesは,理論を反証する.だが反証だけではなく,既存理論に修正を施す.つまり別のargumentを与える.これは実は,既存理論が含意するバーチャルな事例と,自分の事例を,インプリシットに比較していることを意味する.

・比較研究は,単なる並列ではない.積極的に何かを言う.直感に反するパラドックスとして,複数の事例を設定することは,比較研究を設定する有力な方法.


(第5章)

・イントロダクションで,「何の問いにどう答えようとするのか」を明確に言う.

・「先行研究にないから」は,ダメな研究理由.文献は,自分の問題を理解する助けとして「使う」もの.

1段落には一つのアイデア.

 

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これも立派なイノベーション:ベリー摘み器

なかなか時間が取れなくて,多少なりとも力を入れて書くことは難しそうなので,気楽に書くことにした.

 

これは昨秋,フィンランド郊外のお知り合いのお宅で,ベリー詰みをしたときに出会った道具.ベリーの木の下から掻き上げると,ベリーの実が柵に引っかかって(上写真),容器にどんどんベリーが貯まっていく(下写真)というすぐれものだ.てっきり,ベリー詰みというのは,ベリーの小さな実を一粒一粒摘んでいくものだと思っていたが,それは誤解だった.

 

あくまで印象論だけれども,北欧や大陸欧州には,シンプルだが理にかなって深く考えられた,こうしたイノベーションが少なくないと感じる.これは何の故なのだろう?たかがこんな小さな道具にも,社会の特質が反映していると言うことだろうか.

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Blogを書きます

覚え書きのつもりで書きます.

筆者の性格からして,「毎日コツコツ」は苦手とするところですので,ご容赦を :(

主に北欧・フィンランド関係を中心に書くつもりですが,気紛れな筆者の性格を反映して,そうとは限らないかも知れません.ご容赦を :)