「偽情報」という言い方への違和感:ヤシャ・モンクの論考に寄せて

私自身は,人の幸福(happiness, well-being)について専門的に研究している者ではないが,研究対象としている北欧諸国がここのところ毎年「世界幸福度報告」で上位にランク付けされているので,関心を持つようになっている.すでにこのblog記事でも,この調査は通常イメージするような「幸福度」ではなく,むしろ「生活満足度」を測っているものと考えるべきだと書いたことがある.そのうえでデータを分析してみると,この生活満足度を左右するのは「人生における選択自由度」などのいくつかの要因であるという分析結果を提示してもみた.その時の私の結論(めいたもの)は,次のようなやや醒めたものだった.

個人的には,社会の幸福度について語ることにも,また,幸福度を比較することにも懐疑的である.幸福は主観的なものだから,同一の物差しで異なる人々の幸福度を測ることにどれくらいの意味があるのだろうか.さらに,それを社会の幸福度として合成できるという考え方は理論的にはほぼ正当化できないだろう.仮に人の幸福度を測れたとしても,幸福に対する人々の捉え方が文化や社会経済の影響を受けるとすれば(多分そうであろう),各国の幸福度を比較することにはどれくらいの意味があるのだろうか.総じて,幸福度の国際比較という試みは,確実な基礎を欠いていると思う.そうではなくて,各人のケイパビリティについて丁寧に調査をし,それを比較するというアプローチの方が,より客観的で確実な基礎の上に立っていると思われるし,「どうするべきか」を考えることを可能にしてくれると思う.少なくとも,人々を不幸に陥れる要因を減らすための具体的な手がかりを与えてくれるだろう.逆に言うと,今回の幸福度調査は自国の状況に関する深い検討に誘うものとはなりえず,また,上位の諸国がどういう意味で優れているのかを深く検討できずに,いたずらにユートピア視しておしまいになりそうで残念だと思う.

このことを思い出したのは,政治学者ヤシャ・モンクの優れた論考"The World Happiness Report Is a Sham: A case study in elite misinformation"(「世界幸福度報告は偽りである:エリートによる偽情報のケーススタディ」)に接したからである.細かい内容については省くが,世界幸福度報告が「幸福度」としている指標と,そこでの計測上の問題点について多角的に論じた論考である.そして,他の研究者たちが考案した指標に基づいて幸福度を測ると,世界幸福度報告では「幸福である」とされなかった日本などの国が北欧諸国よりも上位に来るいうことを述べている.個人的にはこの結果を見て,ランキングというものの恣意性を忘れてはいけないということを,再び思い出した.「再び」というのは,IMDによる「世界競争力ランキング」で,競争力を図る指標が変更された年度に(確か2000年代初頭),日本の「国際競争力」順位が大きく低下したことをよく覚えているからである.ほとんどのマスコミは「順位が落ちた」という結果のみを大きく報じていたが,得点を算出するための指標が変わったということまで報じた記事・番組はごくまれだった.

私自身は,著者による慎重で多角的な検討は勉強になったし,著者による主張には概ね同意している.しかしここで言いたいことは,言論上の流行に沿って,著者がこの事態をmisinformation(偽情報)の事例として理解していることに対してはとうてい同意できないということである.ここで問題となっているのは,元データ(=情報)の誤りではなく,その解釈である.つまり,幸福度を測っていると解釈することが根本的に難しいデータを,幸福度の指標だと解釈することの(相当の)無理にこそ問題がある.このような問題は,例えば,手を加えて改作された映像をあたかも事実であるかのように流す問題や,あるいは日本のように,政府統計の数値を意図的に改ざんすることの問題とは異なっている.こうした問題は文字通り「偽情報」の問題だからである.

偽情報は「明白な悪」であり,いずれは露見する問題であると思われる.しかし本当に深刻で,見えにくい巨大な問題は,解釈のフェーズの方が引き起こすと考えられる.つまり,偽ではない情報を目の前にしても,それをどう解釈するかという大きな問題が残されているわけである.自身の政治的主張をサポートするために,情報を切り取って示すことは,その情報が偽造されたり誤りを含んでいない限り,偽情報の問題とは通常は言わない.しかしそうした「切り取り」は,特定の方向に人々の解釈を誘導する可能性が大きい.その情報をどういう時間的・空間的文脈に置くか?またどのような概念枠組みから理解するか?それによって解釈は大きく変わりうる.だからこそ,解釈の注意深い吟味が必要となる.

こういう問題に直面しているときに「偽情報」呼ばわりをすると,問題の責任を全面的に他者に負わせることができる.偽情報を流布する人物にのみ「諸悪の根源」があると考えることができるのだから.しかし,解釈にこそ問題があると認識するならば,誤った解釈の責任を他者に押し付けることはできない.なぜならば,解釈が個人の営為である以上,誤った解釈の責任は自身が負わなくてはならないからである.このように,偽情報という言い方には,私たち自身の解釈責任を(誤って)免責するという,大きな負の作用があるということにも注意しなくてはならない.