ベーシックインカムの射程:フィンランドの社会実験を素材に (5)

5. 考察とむすび:ベーシックインカムの可能性とその条件

 以上の検討より、フィンランドの社会経済的な現状、およびフィンランドで行われている議論の中に、ベーシックインカム構想と社会実験を位置づけるならば、社会経済システムの刷新、とりわけ福祉国家の刷新にとってベーシックインカムが持つ可能性と、それが開花するための条件について、以下のような予備的考察を行うことが可能だろう。

 第1に、ベーシックインカムが長期的・趨勢的な社会変化への対応策になりうるかどうかは、目下のところ不確定であると言わざるを得ないだろう。第3節でみたように、フィンランドの議論で注目するべき点は、ベーシックインカムが、長期的変化に対応して社会経済システムを刷新する一契機としても位置付けられているということである。こうしたラディカルな議論が、Sitraという政府機関内で行われていることにも瞠目せざるを得ない。しかし、現在の議論の中では、短期的な問題解決策としてベーシックインカムに期待するという、短期的な視野の議論がはるかに支配的であることも事実である。特に本稿が示したように、ベーシックインカムが経済停滞と緊縮財政の中で検討され、社会実験が実施されていることに注意すべきである。こうした文脈の下では、経済パフォーマンスを向上させる即効策としてのみベーシックインカムに期待をかける傾向が強まることは想像に難くない。ベーシックインカムが果たして、社会経済システムを刷新する一つのツールとしてラディカルな位置づけを得られるかどうかは、あくまで人々の選択と政治的意思決定に依存した、オープンな問題であるというべきだろう。このことはフィンランドのみならず、他国にも同様に当てはまることだと考えられる。

 第2に、以上のフィンランドの事例は、福祉国家に対してベーシックインカム構想が持つ限界を示唆している。第2節で述べたように、フィンランドは北欧諸国の中でも、現金給付に重心が置かれた福祉国家であり、現物給付が弱いことに特徴がある。しかももともと弱い現物給付の削減が続く見込みであること、および、ベーシックインカムは現金給付の枠内での刷新であるということも、第2節で示した通りである。現金給付は元々手厚いので、ベーシックインカムが人々の福祉 (welfare) にとってもつ意味は限定的だと考えられる。求職行動の促進や福祉供給体制の効率化という短期的問題解決手段としての期待がいきおい強くなることは、容易に理解できることである。

 したがって、市民の福祉に対してベーシックインカムがどのような意義を持ちうるかを考えるためには、次のような意味で、現金給付とは区別された、現物給付の動向が枢要であると考えられる。現物給付の削減は、より多くのサービスが、現金で購買すべき「商品」として供給されるようになることを意味するが、仮に現物給付の弱体化が続くとすれば、たとえベーシックインカムという形で現金給付が維持・強化されたとしても、必要なサービスを購入できない層が必ず出現するので、総体としての市民の福祉は低下する可能性が高いと考えられる。例えば、社会保障を完全にベーシックインカムで置き換えたという極端な想定の下ではあるが、フィンランド、イタリア、フランス、英国の4カ国について、ベーシックインカムが貧困と所得分配に及ぼす影響をOECDが試算した結果、フィンランドではベーシックインカムが貧困と所得不平等を拡大するとされる (OECD, 2017) 。極端な想定下の試算であることを割り引いて考える必要があるが、現物給付の維持・強化・刷新を欠いてベーシックインカムを導入したとしても、早晩問題を抱えることを示唆する結果である。ベーシックインカムは北欧福祉国家の特徴である現物給付に取って代わる存在ではないとするBergmann (2004)やCrouch (2013)、Gamble (2016)の議論とも整合的である。したがって、先進諸国でのベーシックインカムの導入を構想する場合、現物給付の刷新をどのように行うかということが、必ず同時に問題になると考えられよう。特に現物給付の削減が続くフィンランドでは、早晩この問題に直面することになるであろう。

 最後に、ベーシックインカム導入のフロントランナーであるフィンランドの経験について、他国の市民が今後注目すべきだと思われる点を2点のみ挙げて、結びにかえたい。第1に、第3節でみたように、財源に関しては利害が一致しない中で、多くの国民が期待する月額1,000ユーロの給付を実現するためには、税制改革が必須になることは明白である。この過程でどのような説得と妥協が図られるのかということは、将来の導入を構想する他国にとっても遅かれ早かれ直面する問題であって、極めて注目すべき政治過程に他ならないと思われる。

 第2に、より本質的な問題だと考えられるが、現物給付の質・量と供給方法がどのように変容してゆくかという問題は、上述のように、ベーシックインカムの帰結を考えるうえで極めて枢要で、注視する必要があるだろう。例えば横山(2012)が示しているように、フィンランドでは厳しい財政状況のために、医療・福祉分野でのサービス水準の低下や、市民によるコスト負担の増加といった、懸念すべき状況が生み出されている。この状況に対しては、コスト削減とサービスの質の維持を両立させることを狙った実験的試行が、地方自治体レベルでさまざまに開始されていることもあり(徳丸, 2017)、現物給付の将来像はなお流動的であると言わざるを得ない。「実験国家」(岡澤, 2009)としての性格を強く持つ北欧諸国の一国であるフィンランドの今後の経験は、ベーシックインカムについて考えるうえで、この点においても注目に値するものと考えられる。

 

参考文献

岡澤憲芙, 2009, 『スウェーデンの政治:実験国家の合意形成型政治』東京大学出版会

柴山由理子, 2017, 『福祉国家フィンランドの政治学:国民年金機構(Kansaneläkelaitos: Kela)の設立および発展過程に焦点を当てて』早稲田大学大学院社会科学研究科博士学位論文

徳丸宜穂, 2017, EU・フィンランドにおけるイノベーション政策の新展開:「進化プロセス・ガバナンス」型政策の出現とその可能性,八木紀一郎・清水耕一・徳丸宜穂編『欧州統合と社会経済イノベーション』日本経済評論社

横山純一, 2012, 『地方自治体と高齢者福祉・教育福祉の政策課題:日本とフィンランド』同文舘出版

Bergmann, B.R., 2004, A Swedish-style welfare state or basic income: Which should have priority? Politics and Society 32(1), 107-118.

Bregman, R., 2016, Utopia for Realists: The Case for a Universal Basic Income, Open Borders, and a 15-Hour Workweek. Correspondent.(野中香方子訳『隷属なき道:AIとの競争に勝つベーシックインカムと一日三時間労働』文藝春秋, 2017年)

Crouch, C., 2013, Making Capitalism Fit for Society. Polity.

Gamble, A., 2016, Can the Welfare State Survive? Polity.

Kela, 2016, From idea to experiment: Report on universal basic income experiment in Finland. Working Papers 106, Kela.

Kela, 2017, Can universal basic income solve future income security challenges? Kela.

OECD, 2017, Basic income as a policy option: Can it add up? Policy Brief on the Future of Work (May 2017)

Simon, H.A., 2001, UBI and the flat tax, in Van Parijs, P. ed., What’s Wrong with a Free Lunch? Beacon Press.

Van Parijs, P. and Vanderborght, Y., 2017, Basic Income: A Radical Proposal for a Free Society and a Sane Economy. Harvard University Press.