「雇用の劣化」:6/2 NHKスペシャル

雇用の劣化にどう対処するかをテーマにした討論番組で,面白かった.

 

提言者として最初に登場した藻谷浩介氏は,企業の付加価値の分配を配当・内部留保から賃金にウェイトを移すべきだという内容の提言だった.これは行き着くところ,小手先の対処にはとどまらず,ステイクホルダー型企業から株主重視型企業に変質したと例えばドーア『誰のための会社にするか』が主張するような,近年の日本の株式会社体制をどうすべきか,例えば会社法をどうするかという本質的な問題に行き着かざるを得ないのではないか.

 

次の提言者だった古市憲寿氏は,そうは言わなかったが,提言内容は「換骨奪胎された北欧(特にデンマーク)モデル」だと言ってよい雇用モデルだった.それゆえ,その内容自体は新しくはないが,大変興味深かったのは,賛否を問われると,40代以上に反対が多かった反面,30代以下の若年層の支持率が大変高かったことだ.これは,日本での北欧モデルの追求が非現実的であり,同時になおかつ現実的でもあるという屈折した実態を表現していると思う.非現実的であることは,高年齢層が認識する通り,目下の日本の社会システムや人々の観念とあまりに懸隔があると言うことだ.しかし現実的であるとは,若年層が認識する通り,目下の日本の社会システムへの参与可能性が低い者にとっては,その方が公正で正当化できるシステムだと言うことだ.いずれも生々しい現実認識に根ざしている.

 

とは言え,古市氏の提言について言えば,「強い個人」を前提としている点が北欧モデルとは大きく違うと思われる.確かに北欧モデルは,ある程度は,能力自己開発に努める積極的な個人を前提にしてはいるが,彼らを支える組織・機関が充実している点が明白な特徴だ(例:産業別・職業別労働組合).それはエンジニアはもちろん,上級マネジャーや大学の教職員にとってすらそうである.

 

古市氏の提言での社会とは,ノマド・ワーカーのように,会社や組織・政府に依存しないで,自らリスクをマネージする,有能で強い個人が構成する社会と言うことのようだ.この点については,Barley and Kunda(2004) Gurus, Hired Guns, and Warm Bodies: Itinerant Expert in a Knowledge Economyという本が実に示唆的だ.自立的なコントラクターとして働くプロフェッショナルたちなど,企業組織から一定の距離を保って働くことに誇りを持って働いている人々であっても,結局は,昔のギルドのような同業者組織的なものが必要となっていることを実証的に論じている.つまりは,「コレクティブなもの」に支えられての個人,という認識に,当事者たちは至り着かざるをえなかったのである.有能感に充ち満ちた彼らですらそうなのであるから,いわんや,サイボーグではあり得ない,人間らしい強さと弱さをあわせもった市井の人々をや,である.

 

何が言いたいのかというと,古市氏の提言も結局は,「どういう企業にするのか」「労働組合はどうあるべきなのか」等々の問いを避けているのではないかということだ.政府がどうあるべきか,個人がどう働きどう生きるべきか,これらの問いはもちろん大事であろう.ところが,政府と個人の間に広がる組織・制度のあり方も同等に大切なはずである.

 

【追記】

(その1)そもそも人は,それなりにフレキシブルに生きられることは確かだが,とはいえ安定性を本質的に必要とする存在のようだ.Richard Sennett (1999) The Corrosion of Character(邦訳『それでも新資本主義についていくか』)や,同(2006) The Culture of the New Capitalism(邦訳『不安な経済/漂流する個人』)は,リストラクチャリングが急進展した米国でのフィールドワークに基づいて,フレキシビリティの徹底的追求は個人のアイデンティティを腐食させる作用があること,それゆえ人間を危機に追い込む作用があることを鋭く指摘している.

 

(その2)個々人はそれなりに合理的に,リスク分散を試みようとするだろうし,実際に「それなり」のことは可能かも知れない.しかし,その結果として社会全体のリスクが減るかどうかはあくまで別問題である.否,往々にして減りはしない.これは私たちが,金融危機でつぶさに目にしたことに他ならない.そもそもリスクの増大は社会現象なのだから,あたかもそれを不可避な自然現象であるかのように語ることには慎重であるべきだろう.もちろんこのことは,「社会現象である以上リスクを解消できる」ことは全く意味しないこと,言うまでもない.