レイヴ & ウェンガー (1993)『状況に埋め込まれた学習:正統的周辺参加』

「学習」という現象を,個人の単なる心理現象に還元してはダメであって,人間関係の中で生じる社会現象として本格的に扱わなくてはいけないというのが,本書の主旨だと思う.「学習をマネージ・管理する」という考え方が重視される昨今だが,学習というものの社会的・創発的性格を無視し,それゆえ洞察の深みを欠く設計主義・管理主義は,現実からのリベンジを食らうだろうというのが,私が本書から読み取らざるを得なかった含意である.

 

以下,感想・コメントを覚え書きしておきたい.

・肉屋の徒弟制の事例が面白い.徒弟を単に教え込む対象としてだけ見て,共同体への参加者として見ていないことが,学習を妨げているという事例である.また,スーパーマーケットの強い能率管理が,形式的には徒弟制がありながら,彼らには狭い限定的な仕事しか割り当てられず,実質的には実践共同体(CoP: Communities of Practice)形成を妨げている事例でもある.要するに,経営側の能率・管理志向の強さが,CoP形成の制約になり得る.

 

・「埋めこまれた」の意味は,ただ単に,知識が社会的文脈に埋め込まれているという意味ではない.そうではなくて,「学習」という行為それ自体が「生きる」「実践する」「仕事する」などの諸行為と不可分だという意味だ.そこで,学習はいわば「生ずる」ものだと理解できる.ある当事者の学習を検討する際には,その人が「生きている」文脈を検討することが必要だということになる.例えば,(公式・非公式)組織が持つ価値規範・文化,報酬体系,権力関係,等々.

 

・ここでの学習概念は,極めて中立的・分析的な概念である.例えば決して,学習は「いいこと」と理解されてはいない.学習は否応なく起きてしまうこととして中立的に理解されている.そう考えると,上記の肉屋の事例でも,学習は存在する.肉の世界のマスターになるために必要な,全体性を習得するような学習が生じていないということにすぎない.そう考えると,経済・経営系の議論は,学習の概念が狭すぎるのかも知れない.

 

・「教師-生徒」とか,「親方-徒弟」といった,「教え・教わる」という関係性の中で学習が生じるとしばしば考えられてきたが,それは正しくない.学習は教育ではない.学習は例えば,徒弟間の関係の中でも生じる.

 

・CoPへの参加度の進展が,学習を生起させる.例えば「一人前の職人になった」と認められるということは,共同体に,正統的かつ深く参加するようになることに他ならない.それが主要な動機付けでもあるということは見やすい.その過程で,アイデンティティも形成される.

 

・内発的動機づけ論は,面白い仕事を与えさえすれば動機付けとなるという理解だろうが,それは心理主義的に過ぎ,学習が「共同体への参加の深化・アイデンティティの確立」プロセスでもあるということを見ていない.つまり,仕事が面白いからやる気が出るのではなく,一人前と見なされて「共同体」の中心メンバーに近づくからやる気が出るのだろう.

 

・「現実に」学習がどうなっているのかが大事なのだ.「どうあるべきか」は,それから考えればいい.およそ人を操作対象と見なす議論は,学習とか労働という現象を客観的に理解することができない.経営者が与える「動機づけ」「管理」だけを見ていたら理解出来ない.職場で自立的に生成される「職場文化」「組織文化」を理解することが肝心だという含意になろう.ここで文化とは,主に価値観・価値規範を意味する.