経済学説史の深い知見に支えられたイノベーション論:Mazzucato (2018)へのコメント

Mazzucato, M. 2018, The Value of Everything: Making and Taking in the Global Economy. (Allen Lane)

 

イノベーション研究の著作は多いし,新自由主義の問題をつく著作も数多ある.しかし,イノベーション研究の観点から新自由主義的な体制をストレートに批判的に捉えようとする著作は,William LazonickやCarlota Perezの著作など,驚くほど少ない.本書はその空隙を突く本質的な著作である.その特徴は次の点にある.

 

第1に,新自由主義が価値の創出に寄与したというよりも,むしろ価値の搾取に寄与しているという見方を提示していることである.とりわけ著者は,イノベーションに対する国家の寄与を過小評価する通念を批判する著書を発表しているが (The Entrepreneurial State),そこでの入念な実証研究に基づき,民間企業はすべからく価値創造者で,政府はその価値創造活動の成果を搾取する者だという見地を退けている.第2に,著者が非凡なのは,この問題を経済学の価値論にまで遡って検討していることである.知られているように,マルクスを含む古典派経済学では,価値を生み出す生産的労働と価値の分配にあずかる非生産的労働に分かたれている.この区別は,実はケインズにも通じるものであろう.しかし新古典派経済学は価値論からこの区別を廃棄した.そして現代経済学では価値論はほぼ論じられることはない.その結果,価値創造と価値搾取の区別を無くしてしまったというのが著者の診断である.

 

言うまでもなく著者は,欧州連合や欧州各国のイノベーション政策に多大な影響を及ぼす人である.その人が経済学史の知見を深く持っていて,なおかつこのように政策実践の議論に深く生かしていると言うことには,率直に言って驚きを禁じ得ない.日本の経済学部では,経済学史は無用の長物であるかの如く軽視されるようになっている.しかし経済学史は実は無用どころか,政策の構想にとって非常に枢要な知見であることを遺憾なく示す著書であることが,非常に興味深かった.もちろん,欧州の問題は根深くて,この本が十分な診断を提示しているかと言うことは,残された課題であろう.しかし,こうした浅薄ではない議論を提示できることは,やはり欧州の強さだと痛感させられた.