世帯・個人向け現金給付は自明ではない

日本政府は国民一人当たり10万円の給付を行う決定をし,補正予算案の組み替えを行うことになったことは周知の通りである.金額や支給スピードについて批判・疑念が提起されているが,ここではそれらには触れない.

 

私が素朴に不思議に思っていたのは,管見の限り,世帯ないし個人向け現金給付を経済対策の柱としている先進国は日本と米国しかないということであった.私が直接調べたデンマークもそうだが,それ以上にフィンランドについて顕著なのは,既存のセーフティネットをコロナ対策に転用できる部分が相当大きいという事実である.具体的には,給付の仕組みは決して普遍主義的ではなく,むしろ,勤労者・企業者としてのステイタスに基づいた給付が柱となっていて,その給付は既存制度の延長線上にあるものが中心ということだ.

 

逆に言えば,セーフティネットが脆弱な国では,経済対策を新しく立ち上げる必要が大きいということだ.事実,各国の経済対策を比較検討したこの記事は,世帯・個人向け現金給付を立ち上げた米国と日本は,社会保障が脆弱だからそうせざるを得なかったのだという仮説を説得的に出している.その意味では,政治的意思決定の負荷は欧州諸国に比べて相当に重いと言えそうだ.また特に日本の場合,財源の問題に常に逢着せざるを得ず,財源問題論議が迅速な経済対策の足を引っ張ることになる.

 

国の社会保障負担を軽くし,その負担を個人の自助努力と企業,家族に負わせるというのが,1980年前後の日本が「日本型福祉社会」の名のもとに選択した道であった.企業福祉の恩恵に浴することができる人口の割合ははるかに低下し,家族による負担にも限界があることはあまりにも明らかになっている.今回の経済対策の遅さと小ささは,結局のところ,日本のセーフティネットの脆弱さと,財政的な裏付けの弱さの反映ではないだろうか.政治の決断力の弱さとか,意思決定機構の問題などはもちろん責められるべきことだろうが,その根本には,財政とセーフティネットの構造的な問題があることを強調したい.